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インタビュー:橘・フクシマ・咲江氏
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プロフィール 橘・フクシマ・咲江 氏 日本コーン・フェリー・インターナショナル 代表取締役社長 |
外資系キャリア講座は、終了致しました。多くの方々にご参加頂き、誠にありがとうございました。 |
| 清泉女子大学卒。ハーバード大学にて教育学修士。同大学で日本語講師。経営コンサルティング会社を経て、スタンフォード大学大学院(MBA)修了。その後、ベイン・アンド・カンパニーに入社。1991年より世界大手人材コンサルティング会社、日本コーン・フェリー・インターナショナルにて現職。米国本社取締役兼務。ソニー(株)、(株)ベネッセ・コーポレーションの社外取締役。キャリア開発に関する執筆、講演活動も広く行っている。 | ||

Q フクシマさんは1990年代から、世界最大のエグゼクティブサーチ、コーン・フェリー・インターナショナルで、人材コンサルティングの仕事をなさっていますね。多くの日本人の外資系への転職をお手伝いしてこられたわけですが、その間、外資系の求人はどのように変わってきましたか?
A 90年代、日本の経済は下り坂を迎えましたが、反対に日本に進出する外資系企業が増え、こうした企業からの求人は返って多くなりました。統計をみてみても、1989年から99年にかけて、対日直接投資は件数ベースで42倍に伸びています。日本企業の競争力が低下して、金融、流通、自動車関連などの企業に外資が直接投資をして、株を持つようになった時代です。それまでの日本には「外部から役員レベルの人を雇い入れる」という発想自体ありませんでしたが、外国人株主が多くなるにつれて、こうした考え方が徐々に受け入れられるようになりました。エグゼクティブサーチという分野が伸びたのは、こうした時代的な背景があるといえるでしょう。
同時に、外資系の投資銀行が日本での業務を拡大し、活発に日本で採用を始めました。私の担当している高級消費財業界も日本で活発に採用しました。日本の経済が傾いた時期にも、こうした企業には2桁の成長をしている企業もありましたから、外資系企業からのニーズが増えました。
実際、需要と供給がミスマッチで、供給サイドでは適任の人がいないために、ドット・コム・バブルの最盛期にはクライアントをお断りしなければならないほどの時期もありましたね。2000年にドット・コム・バブルが崩壊して、世界の求人市場は4割から5割ぐらい落ち込みましたが、それでようやくエグゼクティブ・サーチ業界が本来の姿に戻ったという感じです。
エグゼクティブサーチの利用は日本企業にも拡がっている

Q フクシマさんのクライアントは主に外資系企業ということですね?日本企業にはまだエグゼクティブサーチというコンセプトは定着していないのでしょうか?
A 先ほども述べたように、我々のクライアントは外資系が9割以上で、ご存知のように、そもそも日本の大企業には外から役員クラスの人を雇うという慣習はほとんどありませんでした。ところが、企業再生のために、最近では日本の企業がリクルーティング会社を使って、トップの採用をする例も増えてきました。特にここ3、4年で、少しずつ増えていますね。たとえば、東京電力(TEPCO)も最近、コーン・フェリーを通じて初の女性の部長を採用したんです。このところ、PEファンド(投資ファンド)の投資先の企業でのニーズも拡大しています。 たとえば、外資系のPEファンドの投資先であっても、業務自体は日本で続けているので英語は必要ない、というケースもあります。もっとも、日本企業の場合は国内の採用より、むしろ海外での現地採用のお手伝いを、我々の海外オフィスがすることの方が多いです。
ただ、我々のクライアントの外資系であっても日本企業であっても、大半が、英語ができる人材が欲しいとおっしゃいますから、何らかの形で国際的な仕事に携わってきた経験のある方をご紹介することが多いです。

Q とはいえ、日本人が外資系に転職するにはまだまだ勇気がいるのではありませんか?特に投資ファンドと聞くと、それだけで不安になってしまう人もいるのでは?
A もちろん、候補者の中には転職経験がない人もいらっしゃいますし、PEファンドでしかも外資系といえば、「怖い」とおっしゃる方もいるのは確かです。ただ、コーン・フェリーの場合は「リテイナー」といって、事前にコンサルティング料をいただいてからクライアント企業が欲しいとおっしゃる人材を探していますから、合わない方を無理やり入れるインセンティブはないんですよ。そこが、入れてから料金をとる成功報酬でやっていらっしゃる人材コンサルティング会社とは根本的に違うところで、システム上、無理に入っていただくより、入社してから成功していただく必要があります。
その分、事前のカウンセリングやフォローアップには気を使っています。企業に入社前に、「この企業で働くための心構え」のようなものをお話して、入社後は1ヶ月後、2か月後と、両方からお話を伺っています。この後の部分というのはコンサルティング料には入っていないのですが、成功の確率を高めるには一番大切なことです。このアフター・サービスを続けていると、企業もリピートで契約してくださいます。10年で70件というクライアントさんもいらっしゃいますから、長くお付き合いさせていただいている例が多いといえるでしょう。ドット・コム・バブルが崩壊した際に他の外資系のエグゼクティブサーチに比べて、インパクトが少なかったのも、このおかげだと思っています。
“I’m not confident,” “I’m new to the company, so I don’t know” は禁句!

Q 日本人が起こしやすいトラブルというのはありますか?
A たとえば、よくあるのがちょっとしたコミュニケーションのミスから、上司の信頼を失ってしまうケースです。たとえば、ある日本人の候補者が契約終了後に、“I'm not confident, but I will try my best,” とおっしゃった。これは日本語で考えれば、「よろしくお願いします。 及ばずながら、一生懸命やらせていただきます」という意味ですよね。別にご本人は自信がないわけではなく、いわば社交辞令のようなものです。日本人は謙譲の美徳から、面接で「僕は絶対自信があります」とは言いませんよね。しかし、面接を行った方はオーストラリア人で日本のことを知らない人だったため、後から電話があって、「咲江、大丈夫か?本人は自信がないと言ってるぞ」と。
また、ミーティングでの日本的な行動が誤解を招くこともあります。その方は海外の日本法人の社長のご経歴を持っていて優秀な方だったのですが、控え目な性格からか、自分からの発言は控えられ、相手から意見を求めるまで黙っている。意見を求められても、「自分は会社に着て日が浅いので、詳しく知りませんが……」と始めた上、結論を先に言わないものだから、相手には何が言いたいのか伝わらない。英語に自信がないのであれば、通訳を介してでも積極的に発言なされた方がいいのですが、それも遠慮してなさらない。これでは海外から来られた人には、「この人大丈夫か?」という印象を与えてしまいます。
そこで、「こうした場合、Correct me if I'm wrong (間違っていたら正して下さい)と前置きした上で、積極的に現状についての意見を切り出してください」とアドバイスさせていただきました。フォローアップでは、そうした細かいところをケアしていきます。
Q なるほど、日本的に言えば「控えめ」とか「謙虚」といわれる部分が、外資系で仕事をする上ではマイナスになってしまうこともあるんですね。
A 全部がそうではありませんが、そういうケースも少なくありません。それから、上司へのリポーティング、つまり報告の際の誤解もよくあります。外資系企業では、担当者は問題を解決するために雇われているわけですから、上司に報告する際に、ただ「問題があります」と報告するだけではだめです。ですから、「自分なりに解決策や対処法を考えて、自分としてはこうしたいという意見をまとめてから相談に行ってください」とアドバイスしています。もちろん、日本企業で20何年もそういう形で仕事をしてきた方にとっては、すぐに変えろといわれても難しいかもしれませんが。
「ハーバードで日本語の講師を探しているけれど、行く?」で仕事が決まった?!

Q そういってみれば、フクシマさんはハーバード大学の大学院で教育学と異文化コミュニケーションを学んだ経験をお持ちですね。当時はまだ留学する日本人も少ない時代ですよね。アメリカ行きは最初から計画していたのですか?
A 私は仕事上、キャリア構築のアドバイスをする機会が多く、その都度「将来のビジョンを持って戦略的にキャリアの計画を立てること」の重要性を語るのですが、自分のキャリアを振り返ってみると、主人(エアバス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 グレン・S・フクシマ氏)に出会ったことがキャリアの原点になったと思います私が清泉女子大学にいた頃は、まだ学生運動が盛んな時期でしたから、私も何かしなければならないという気持ちから、日米学生会議という戦前から続いている会議に応募しました。そこで運よく、日本の学生の代表に選ばれて、アメリカに行くことになったんです。当時はまだ日本人がアメリカに行くのは珍しく、親族一同や友人が空港に見送りに来るような時代ですから、代表に選ばれた学生は「日本を背負って行く」という立場で、政治や、経済、文化などそれぞれの分野を一生懸命勉強して行くわけです。ところが着いてみると、アメリカはまだヒッピーの時代で、みんなヒッチハイクしてやってきた人ばかり。日本の学生は日本の代表として国を背負って発言するのに、アメリカの学生は個人として参加し、意見を主張するんですね。世の中が新しくなった感じでした。
そこで出会ったのが主人だったんです。その後、グレンが日本に留学している間に、翌年の会議の準備委員会を一緒に担当して、「それじゃあ、結婚しようか」と。
私は大学を卒業してすぐに、教育教材を作る会社に就職しましたが、グレンは当初は博士号を取得して大学教授になるつもりでした。当時のアメリカでは、夫が大学院に進んだ場合は妻が経済的にサポートするというのが一般的な形でしたが、私は英文科に行っていたのに英語はそれほどできないし、働いた経験もほとんどありません。このままではアメリカに行っても売るものがない、と。すると、仕事上お付き合いしていた大学の先生が、「それだったらアメリカで日本語を教えたらどう?ICUの大学院なら日本語教授法のコースがあるから」とアドバイスしてくださったんです。それがきっかけで日本語教授法の勉強をし始めました。
グレンのハーバード大学行きが決まったので、私が指導教官の教授に渡米の挨拶に行くと、、「そうそう、今朝ハーバードで日本語の講師を探していると連絡をもらったけれど、行く?」と紹介してくださいました。当時、日本で日本語教授法を教えている学校は少なく、ICUにいたことでチャンスが拡がったんです。本当にラッキーでした。
とはいえ、まだグレンがいずれどこで教職につくかは分からず、アメリカの州立大学で日本語を教えるにはアメリカの修士課程が必要でしたし、自分でも異文化間のコミュニケーションを勉強したいという気持ちがありました。そこで、ハーバード大学では日本語を教えながら、自分でも教育学修士過程に進みました。

Q なるほど。でも、せっかくハーバード大学で大学院まで出たのに、どうしてビジネスの世界にお入りになったのですか?何かきっかけとなったことは?
A 大学院を出て日本語を教えていた頃、教え子の一人からコンサルティング会社が人を探している、と聞きました。この会社は、ビジネスに熟知しているMBA取得者がほとんどでしたが、彼らはビジネスには明るくても日本のことは知らない。当時は80年代で、日本が経済力が伸びつつある時でした。そこで、会社は日本のことは知らないけれどビジネスには明るい人と、ビジネスは経験がないけれど日本を熟知している人を一緒に仕事させて、お互いに学ばせようという意図で、合弁会社を設立したのです。
私は日本語を一生教えるつもりで、それなりに投資もしてきましたし、父も教育者だったので、私が教えているということをとても喜んでいました。私自身教えることは好きだったし、ビジネスの経験はない上に英語が得意ではなく、躊躇がありました。
でも、グレンが「咲江は絶対ビジネスに向いているよ。やってみなければ分からないじゃないか。」と言うので、こわごわと転職した、という感じでした。
Q それが、ブラックストン・インターナショナルだったんですね。フクシマさんはどんなお仕事をなされたんですか?
A 私はビジネスはまったく知らずに入ったのですが、会社には日米関係の専門家で元大学教授という人もいて、とても働きやすい環境でした。そもそも、コンサルティングという仕事は、「ビジネス」と「教育」のちょうど中間にあると思います。自分がやってきたことも役に立つし、教えた経験から人に何かを説明するのが面倒でなかったということもありますね。私が担当したのは製造業等で、企業の国際戦略の立案・実施を行いました。
ただ、唯一、英語には苦労しましたね。アメリカに住んでいたとはいえ、ハーバード大学は日本ごのみで授業をするので、学生に日本語しか使わないんです。生徒は私と日本語を話したがるし、グレンの知り合いもみんな日本語が話せる。アメリカにいても日本ビレッジに住んでいるようなものでした。で、甘えてしまって、なかなか勉強にならなりませんでした。だから、全部英語の職場環境は、最初は大変でした。
スタンフォードのビジネススクールではクラスメートから「長老」と呼ばれた

Q ビジネススクールでMBAを取ることにしたきっかけは?
A その後、グレンがフルブライトの奨学金を受けて日本に来ることになり、一緒に戻ってきたのです。そこで、自分は何ができるかと考えたら、やはり「ビジネスが面白い」と。で、ビジネスの概念を速習するには、MBAが一番よいだろうという結論に達したんです。それからは、せっかくアメリカで身に付けた英語をなるべく忘れないようにと、昼間は政府関係のシンクタンクでアルバイトをしながら、夜は同時通訳の学校に通いました。この時の教材が、後にビジネススクールの勉強に役に立ちました。
だから第一志望のスタンフォード大学から「合格しました」と電話が入った時は、本当に嬉しかったですね。ただ、グレンはロサンジェルスの弁護士事務所にいましたが、米国通商代表部(USTR)から誘いがあり、ワシントンに住むことになり、私がMBAを取るまでの2年半はカリフォルニアとワシントンで別居生活を送りました。私の方は、夏はワシントンの世界銀行でインターンシップをやり、その他はカリフォルニアで勉強するという生活。一方、グレンは日米交渉で日本とワシントンを行き来していました。
私がMBAを取得した頃というのは、ちょうど「MBAバブル」と言われた時代。私がビジネススクールに入ったのは35歳の頃ですから、年齢的には卒業生370人中の上から4番目でした。日本人の学生の間でも「長老」と呼ばれていたんですよ。
ただ、当時は日本の経済が高成長を遂げており、アメリカのコンサルティング会社や投資銀行は日本企業を担当する日本人の雇用に躍起になっていた時代で、「日本人なら年をとっていてもいい」と投資銀行からもずいぶんたくさんオファーをもらいました。
その時々に与えられた仕事をめいっぱいこなしたことがキャリアにつながった

Q でも、結局は投資会社に行かずに、経営コンサルティング会社・ベイン・アンド・カンパニーを経て、コーン・フェリーへと転職していますね。人材コンサルティングを選んだのには何か理由があったのですか?
A ベインでの仕事は充実していましたが、休日もなく平均睡眠時間3時間ぐらい頑張っていましたね。当時グレンは米国通商代表部にいたので、毎月のように日本に来ていましたから、私が日本に居ても不便はありませんでしたが、彼が通商代表部を辞めるのを機に、「このままでは会えなくなる」ということで私がアメリカに移ることにしたんです。ところが、グレンが次に就職した会社が、彼を日本に送ることにしたので、いったん引っ越したのに、結局二人で日本に舞い戻ることになってしまいました。コーン・フェリーには日本に戻っていることを知った元のベインの同僚が誘ってくれました。
この仕事を選ぶのには、あまり迷いませんでした。実はこの選択をする前に、エグゼクティブサーチの会社をやっている知人に、「咲江に一番向いているのは、リクルーティングの仕事だよ」と言われたことがあったので、頭のどこかにその言葉が残っていたのかもしれません。
でも、実際に入社してからは、毎年、あと一年、もう一年、という感じでしたね。入社したばかりの頃は、誘ってくれた同僚の勧誘の言葉は、「ベインと違って、この会社は6時に帰れるよ」ということでしたが、これは最初の3ヶ月だけ。仕事はやればやるほど忙しくなり、「ちょっと、話が違わない?」という感じでした。ちょうど、日本の経済が下向きになり、外資系の企業がどんどん日本に進出していた時代だったので、サーチ業界も急激に拡大した時期でした。
そうこうしているうちに、よいクライアントに恵まれて、あっという間にアジアで一番の売上を上げるようになったんです。それもあったかもしれませんが、米国本社の取締役にも選ばれた。単純なことですが、ただひたすら努力していたらクライアントに恵まれ、よい仕事の出会いが重なって、いつの間にかキャリアができていた、というのが正直なところです。
キャリアセミナーで計画的にキャリアを構築することの重要性を説くわりに、自分自身のキャリアを振り返ってみると、その時、その時で、与えられた仕事をめいっぱいこなしたことが、結果的には次のキャリアにつながっていた。たとえば、2002年7月に花王の社外取締役に就任しましたが、それもコーン・フェリーが花王のヨーロッパでの仕事をお手伝いしたことがあり、その際のプレゼンテーションで、後藤卓也会長に一度お目にかかったことしかありませんでした。
一番感謝しているのは、グレンが通商代表部の仕事を通して日本の財界や、また米国商工会議所の会長だったので、外資系企業との接点があったこと。それから私のキャリアを応援してくれたことかもしれません。そのおかげで、色々な出会いがつながっていきました。

Q 夫婦で相乗効果を生み出す、というのは素晴らしい話ですね。
A 私はもともとキャリア志向だったわけではありません。むしろ、常に成績のよい兄の下で、プレッシャーを感じながら生きていて、まったく自信がありませんでした。それが、グレンと結婚してからは、私が思っている以上に、彼が私の能力を大きく評価してくれて、信頼してくれている。なんとなく「そうか、できるかもしれない」と思わせてくれる。彼と結婚していなかったら絶対こういう仕事はしていなかったし、おそらく、アメリカで大学院に行くことすらなかったでしょうね。
Q フクシマさんのお話をおうかがいしていると、あたかもラッキーの積み重ねのように聞こえますが、実際にはたとえば日本語を教えながらハーバード大学の大学院で修士を取るとか、アルバイトをしながら同時通訳の学校に通う、あるいは35歳でMBAに挑戦する、など、人並みならない努力をなさっていますよね。そのエネルギーはどこから来るんでしょう?
A うーん。ある意味では、ゆとりがない人間なのかもしれませんよ。今でも、人が一やるところを、自分は二倍やらないとできないと思っているので、その分無意識に頑張っているのかもしれません。グレンには「咲江は完璧主義で、ある意味まじめ過ぎる」と言われますが、実際手を抜くのが苦手なんです。最近は、色々な仕事を同時にこなさなければならないために、強弱をつける術を身に付けましたが、本来は一つのことに集中して突き進むタイプなんでしょう。
だから、社内のポリティクスなど、仕事以外のことに時間を割くのが嫌いで、そういう時間があるのならクライアントのために仕事をしたい、と考えてしまいます。でも、私の場合は会社がそれを許す環境で幸いしたのでしょう。クライアントの方だけを向いて仕事をしてきた結果として、成績が伸び、会社もそれを評価してくれましたから。
最初の頃は、休暇を取っても、クライアントへの対応が不安で、一晩中電話にかじりついていました。そういうところをクライアントが理解してくださったのかもしれません。
人を育てるのが好き
Q 事前に計画したわけではないにせよ、ふたを開けてみれば、人材コンサルタントがフクシマさんにとっては適職だったということですね。
A そうですね。それから、いろいろ紹介をいただいて、仕事が膨らみ始めたいい頃に、ちょうどいいタイミングでいい人たちが会社に入ってくれて、そういう人たちと仕事をするのが楽しかったという部分も大いにあります。下の人たちが伸びるのを見るのが楽しいし、それが自分の勉強になっています。ある意味では「生まれながらの教師」なのかもしれませんね。おせっかいかもしれませんが、「こうしてあげたい」と思うと手を出さずにはいられないところがあるんです。でも、最近は気を付けて、なるべく人に任せるようにしています。
Q それではセミナーで、続きをお聞か下さい。ありがとうございました。
多くの方々にご参加頂き、誠にありがとうございました。
